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Criticism of concert & Recital 演奏会批評

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

レコード芸術 2014年6月号 新譜月評 6月号特選盤 推薦 濱田滋郎

中堅ピアニスト三木裕子は、現在ザルツブルク芸術大学で「国家認定教授」の資格を得ており、活動の場もオーストリア、ドイツを主にしているとのこと。知名度はおそらく日本よりかの地のほうが高かろう。これまでのレコーディングは独墺のものが多かったが、ここで目先を変え、オール・ドビュッシーの1枚を世に問う。相当に詳しいライナー・ノーツを自ら執筆し、曲目解説のみならずドビュッシーの伝記的な興味深いくさぐさを述べるなど、フランスの大家に対する関心と造詣も、深いものがあるらしい。選曲は《前奏曲集》第1巻全12曲と、《ベルガマスク組曲》より〈月の光〉、そして《2つのアラベスク》。短く評するなら、たいへん明晰な演奏である。《前奏曲》の12曲は、あるひとつの“ドビュッシー的”な雰囲気のうちにあるようでいて、その実、十分相異なった、互いにコントラストをなす曲たちの集まりである。三木は、曲目ひとつひとつの性格を曖昧にすることなくきっぱりと読み取り、それぞれにふさわしい表現を施していく。そのことにより、コントラストはしばしば、ごく鮮やかなものになる。例を挙げるなら、三木の表現によれば「雪だから白いはずなのに灰色に思えるほど」物憂く哀しい〈雪の上の足あと〉の前後には、光彩溢れる〈アナカプリの丘〉と、激しく渦巻く〈西風の見たもの〉が置かれているように。荘重な〈沈める寺〉と、軽妙かつユーモラスな残り2曲にしてもそうだ。そうした構図が際立つ快演。

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

レコード芸術 2014年6月号 新譜月評 6月号特選盤 推薦 那須田務

三木裕子は東京藝術大学、ミュンヘン音楽大学、ザルツブルク芸術大学(旧モーツァルティウム音楽院)などで学び(師の中にはかの名教授ライグラフがいる)、第42回日本音楽コンクールで第1位などのコンクールの受賞歴を持つ。すでに4枚のディスクがある。どちらかといえばドイツ系の音楽で、これまでのディスクを見てもベートーヴェンやモーツァルト、シューベルトなどなので、今回は例外的な選曲ということになるのだろう。ドビュッシーの《前奏曲集》第1巻。やはりドイツ風の重厚なピアニズム。重たく暗い音色でフレージングが大きい。デュナーミクのグラデーションの幅が広く、最弱音が美しい。〈亜麻色の髪の乙女〉も同様で鈍い光沢を帯びた音色で滔々と歌われる。一つ一つの音をきちんと鳴らそうとする点もドイツ風といえるかもしれない。〈沈める寺〉は4分音符と2分音符のところで音価が変わらない、リステッソ・テンポによる従来の解釈。ドビュッシーは本来、4分音符と2分音符を同じ音価を指定したらしいが、その指示が初版に反映されず、ずっとそのままになっていた。でもこうして聴いてみると、そのじっと動かない2分音符が、三木の重々しい音色と相俟って、大海に沈む大伽藍や鐘という伝説のイメージがとてつもなく大きなスケールで迫ってくるようで、これはこれでいいのかもしれない。〈パックの踊り〉はもっと軽やかであってほしいが、いずれにせよ、この人のピアノの音の充実した質感は特筆に値する。

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

ピアノ音楽誌 月刊ショパン 2014年5月号 道下京子のCD Pick Up 道下京子

ザルツブルク芸術大学(モーツァルテウム)教授の三木裕子。東京藝大とミュンヘン音楽大学、さらにザルツブルク芸術大学に学び、第42回日本音楽コンクール第1位をはじめ、国際コンクールでも入賞。これまでにもベートーヴェンやシューベルトなど、ドイツ音楽を中心にCDを数枚リリースしたが、今回はドビュッシー。非常にバランスに優れた演奏だ。奇をてらうような音楽表現はなく、作品ときっちりと向き合ったピアノを聴かせる。安定したテクニックを礎に、夢幻的な世界の中にきりりとしたロジックを感じさせた。近年のドビュッシー演奏にありがちなあいまいな、音の滲みはなく、音の粒を美しく際立たせ、ゆったりとした語り口と洗練されたタッチを通して芳醇な香りを生み出した、上質なドビュッシー。

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

芸術現代社 音楽現代 2014年5月号 音現新譜評CD&DVD 青澤唯夫

東京芸大からミュンヘン音大に留学、演奏活動のほかザルツブルク芸術大学教授として教育にも力を注いでいる三木裕子のドビュッシー/プレリュード集第1巻は、丁寧にしっかりと弾かれている。音色がとびきり美しいとか、才気に走る演奏というのではなくて、その実在感のある表現は堅実で、個々の音の意味を深く考えさせる。「ヴェール」、「沈める寺」などに彼女の演奏の特質がよく発揮されている。「月の光」もまた平衡感覚が活きた丹念な演奏で、選曲、解説から装画にいたるまでCDすべてに経験豊かなピアニスト三木ならではの感性が行き渡っている。二つの「アラベスク」もそれぞれに形式感が明確で、譜読みの確かさがうかがえる。

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

ぶらあぼ 2014年5月号 新譜ぴっくあっぷ 高坂はる香

eぶらあぼにて、電子ブック形式でご覧いただけます。

【eぶらあぼ】http://ebravo.jp/digitalmagazine/bravo/201405/index.html

三木裕子 ピアノ ドビュッシ一

クラシック新譜 演奏会 甘口時評 谷口静司

残念乍ら、許可を頂く手続きをしています時に谷口氏の訃報を知りました。
心からご冥福をお祈りを申し上げます。
谷口氏のHPの2014年4月の新譜紹介の4月1日記、2ページ目に出てまいります。

【甘口時評】http://classic-music.jugem.jp/?eid=1768

三木裕子/3つの幻想曲

レコード芸術 2009年6月号 神崎一雄

以前に聴いたモーツァルト、ベートーヴェンなどのCDから、三木裕子は「すぐれた音楽性において信頼できるピアニスト」との印象が残っている。この新譜を聴いても、そのことはさらに確かめられる。もとより、しっかりした技術の持ち主である。

『3つの幻想曲』と題し、モーツァルト、シューベルトの作品を揃えたこのアルバムには、三木裕子のアイデア、“目のつけどころ”が光る。企画上のキー・ポイントがひとつである。それは世上滅多には聴かれないシューベルトの《幻想曲》ハ長調D993を、モーツァルト《幻想曲》ハ短調+《ソナタ》ハ短調、シューベルト《さすらい人幻想曲》のあいだをつなぐ一環として挿入していること。シューベルトのこの作品(演奏時間5分47秒)は、20世紀後半になって手槁が発見されたものの、つまりドイチュが整理番号(D)を付したシューベルト作品カタログを製作後に見つかったので遅い番号を与えられているが、じつは若書きで、聴いてみれば判然と分かるが、モーツァルトのK475(当盤の1曲目)を“お手本”としての習作にほかならないのである。 こんな事実を、実際に音を通して教えてくれたこのCDは大変興味深いもので、独自の存在感が生じている。

それと同時に、各曲の演奏内容も、表面的な効果のみには走らず、作品それぞれ、細部それぞれの意義を読み取りながら、じっくりと誠実に仕上げたものと評価できる。知・情・技にわたって高い水準にあるこのピアニストからは、この先もユニークな研鑽の成果が期待される。

[録音評] 演奏に対して近すぎず遠すぎず、アタックがあまりきつくならず、それでいて曖昧に甘くならずという、絶妙な距離感による収録が印象的である。ピアノが十分に響きながら、遠いイメージにならない距離感で捉えられている。演奏ステージの上のピアノのトータルな“鳴り”のイメージとも言おうか。温かく膨らみがあってクリアさも十分。いちょうホールでの2008年2月の児島巌による収録。

(1)モーツァルト:幻想曲K.147②同:ピアノ・ソナタ第14番 (2)シューベルト:幻想曲D.993 (3)同:同D.760《さすらい人》 三木裕子(P) ライヴノーツⒹWWCC7144 ¥2,940

モーツァルト:《最初と最後のピアノ作品》

レコード芸術 2007年12月号 濱田滋郎

三木裕子はこれまでにもベートーヴェンの後期3大ソナタ(第30~32番)、ロマン派時代の幻想曲集といったディスクを発表してきた中堅ピアニスト。ザルツブルク在住の年月がすでに長い。

当盤は2006年10月横浜みなとみらい小ホールで行われたオール・モーツァルト・プログラムのライブである。
「イ長調K311」「変ホ長調K282」「イ短調K310」と3曲の《ソナタ》が中心を占め、他に導入的な役割として《幻想曲》ニ短調K397を置き、ソナタの合間に子供時代の作品(K1a~1f)を配し、結びはグラスハーモニカのための《アダージョ》ハ長調としている。

聴後にひもといてみたブックレットの中で三木裕子は「彼(=モーツァルトの音楽の根底はいつも濡れています。濡れ=涙。心がずぶ濡れになっているのを音から感じるとき、私の指は驚きのあまり動かなくなります……」と感想を綴っている。なるほど、彼女の奏楽は、けっしてこの文章から想像されるほどウェット一方で重苦しいものではなく、軽快さ、軽妙さも必要なだけ表現しているものの、基本的にはロマンティックである。

冒頭の《ファンタジー》や《トルコ行進曲つきソナタ》の随所に、そして当然イ短調ソナタのすべてに実感される程良い感情移入の火照りは、いっぽうで彼女が様式感を逸脱しない「たしなみ」を身につけているために快い共感を呼び覚ます。わずかに意余って音楽がやや落ち着かなくなる箇処もあるが、それを欠点ととがめるのは、心ない行いであろう。三木裕子は疑いなく、豊かな心情を奏楽に生かすことのできる、たいそう好ましいピアニストである。

[録音評] 2006年10月の、神奈川県、横浜みなとみらい小ホールにおけるライヴ・レコーディング盤。高音域は、やや甘いが、余韻も澄んで聞こえ、中音域もしっかりと捉えられている。 会場も静かで、響きににごりが感じられないのがよい。

モーツァルト:《最初と最後のピアノ作品》

ショパン 2008年1月号 今月のおすすめ 壱岐邦雄

モーツァルテウム音楽院に学び、現在母校の教授をつとめる三木裕子が'06年10月31日にミナトミライ・リサイタルホールでおこなったリサイタルライヴ。

K397とK310の短調作品はしっとりとした悲哀を湛え、K617aには澄明な諦観が漂う。K1の小品たちも可愛いだけでなく天才モーツァルトの原点、そしてのちのピアノ作品の萌芽としてニュアンス豊かに響く。きめ濃やかなダイナミクス、しなやかなフレージング、リズム……三木裕子の繊美なピアニズムにモーツァルトを愛で慈しむ心情が映り、それが聴きてにも伝わって魅力的かつユニークなモーツァルト・アルバム。

三木裕子/ファンタジー

レコード芸術 2001年9月号 濱田滋

三つの全く違う《幻想曲》を集めた一枚。
このうちブラームスの作品116は、〈インテルメッツォ〉四篇〈カプリッチョ〉三篇を集めてひとつにしたアルバムに、なぜか"Fantasien"のタイトルを付したもので、“幻想曲集”というより、“そこはかとなき気まぐれ”とでもいった、文学的タイトルだったのではないだろうか。ともかく、十分に興味ぶかいプログラム立てである。

日本音楽コンクール第一位、ヨーロッパでの国際コンクールでも入賞歴の豊かなピアニストで、ふだんザルツブルクに住む三木裕子は、いずれの曲をも音楽の深みまで分け入って捉えたと言える、見事な演奏を展開している。

私が特に心惹かれたのはシューマンの第一楽章、ブラームスの〈インテルメッツォ〉イ短調(作品116-2)、同ホ短調(作品116-5)などで、シューマンの終始表情に富み微妙な起伏をそなえた弾きぶり、ブラームスのデリケートな“綾”とともに心ゆくまで歌わせてゆく呼吸のよさに、並の奏者からは味わえぬ個性を実感できた。
いっぽう、シューマンの第二楽章あたりは、もう一歩、昂揚感に華を添えるようなひと工夫がほしく思われる。たいへんよく掌中に入れた部分と、まだどこか入りきれていない部分の区別が見えなくなったとき、この優れた資質を持つピアニストの完成があるのではないか、と考える。もとより、これは高い次元に立って言うのであり、一般的な水準から見れば、三木裕子が己れの芸風とともに披露できる、“聴くべきピアニスト”である事は隠れもない。

シューマンの第一楽章に聴いた、しんから感じられた有機的な表現のすばらしさを、私は忘れまい。

[録音評] 2000年4月、群馬県、笠懸野文化ホールで録音。距離感が適度で、左右に広がる音像の大きさにも誇張がなく、タッチの粒立ち明瞭。自然なホールトーンが豊かに収録されているため、一音一音の肉づきがよく、つややかで美しく、その響きのもやもやが少ないため細かな表情もよく聴きとれる。ライブ録音を思わせるところがあるが、マイク設置の制約などのハンディは感じさせない。

(1)シューマン:幻想曲は長調作品17 (2)ブラームス:幻想曲集作品116 (3)ショパン:幻想曲へ単調作品49 三木裕子(P)(ライヴノーツⒹWWCC7388)¥2940

ベートーヴェン:ピアノソナタ

レコード芸術 1997年10月号 濱田滋

三木裕子(ひろこ)については、ふつつかながら、かねて名前を聞き知るのみで、知識がなかった。
のちに述べる自筆の解説の末尾に「1996年12月、ミュンヘンにて」とあるので、日頃ヨーロッパ在住なのだろうか。
ただし録音は'96年4月、東京カザルスホールで、ライブとして録られたものである。(それにしては会場ノイズは感じられず拍手もまったく省かれているが)。

ベートーヴェンの最後のソナタ三篇という申し分なく重いプログラムだが、この人の演奏力、表現力が大変高いことに感心させられた。タッチ、指さばきともに俊敏で鋭く、また多彩も持ち合わせていて、音楽が生きいきと造型され、流れもよい。

先にふれた自身の解説に目を通し、なるほど、と思った。それによると三木裕子はこれらの三篇のソナタに関して、たいそうユニークな見方をしている。
すなわち、まず、彼女はこれら三曲が不可分のワン・セットであって、作品109が提示部、作品110が展開部、作品111が再現部の役割を果たし、そのことは調性の配分からも説明可能だと説く。
次いで彼女は、これら三篇はベートーヴェンの《ファウスト》であると言い、筆者の責任において要約すれば、第30番は現世的な音楽に酔うファウスト、第31番は美の追求により生の意義を把握しようとして静観者に回るファウスト、第32番は、人生の意義を悟り悪魔との縁切りを望みつつ死ぬファウスト、その魂の激痛と浄化だ……というふうに述べる(解説書の表紙は空飛ぶメフィストだ)。

この説は、さまざまな感想を誘い出すことだろう。反論もあるかもしれない。だが、ここでいちばん肝心なのは、三木裕子がそのようなコンセプトあるいはイマジネーションを抱いてピアノをひき、それによって他の人びととは違った表現を果たし得たところが、たしかにあると聴き手に実感できることだ。ユニークな、しかも実力のあるピアニストを一人知った。注目して行かねばなるまい。。

[録音評] 1996年4月11日、東京、カザルスホールにおける演奏会のライブレコーディングである。 中央空間に、やや小さめなピアノ音像が定位されるが、距離感は近めであり、そして低音域もしっかりとらえられている。 最強音のときに、音のくずれが見られないこともないが、単音はクリアに聴こえ、ライブ録音のハンディをあまり感じさせないまとまりのよさを見せる。

ベートーヴェン:ピアノソナタ 第30番 ホ短調 作品109/同第31番 変イ長調 作品110/同第32番 ハ短調 作品111 三木裕子(P)(ライヴノーツⒹWWCC7299)¥2940

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